NPO 法人千葉県森林インストラクター会 | |
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事業区分: ステップアップ講座 | 活動分野: 自主活動 ※研鑽等(地域部会) |
開催日時: 2024年10月24日(木)18:45~20:45 | 活動種類: その他 |
開催場所: 船橋市中央公民館 | 受講者: FIC会員8名(講師含む) |
活動概要
今回の講師は、吉埜 拡史さんです。
明治期末から昭和中期にかけて、日本全国に延べ8,000km以上も走っていた森林鉄道。日本の林業発展に多大な貢献をした森林鉄道について、その成り立ちから終焉までの流れをわかりやすく解説して頂きました。
森林鉄道の種類は大きく2つある。
①森林軌道(2級線)伐採地~集材地
木材を積載した運材台車の自重を利用して、人がブレーキ操作を行うことで乗り下げるもの。 空の台車の引き上げは、人力、牛馬、小型機関車(昭和~)。下りの木材積載台車の運搬に 動力車を使わない。
②森林鉄道(1級線)集材地~麓の国鉄駅や港
空の台車の引き上げや、下りの木材積載台車の運搬に蒸気機関車やディーゼル機関車(昭和~)の動力車を用いる 。
日本で最初に、鉄道が敷設されたのは、明治5年9月12日の新橋~横浜間(29km)。森林鉄道の方は明治29年に神奈川県丹沢のほおづき御料林にモミの角材の上に鉄板を張った木軌条(約1.3km)東京木材(株)軌道。国による初の開設は明治34年に長野県の阿寺軽便軌道(約3.4km)(諸説あり)。動力車けん引の森林鉄道の最初は明治42年の津軽森林鉄道(67Km)だった。
明治期まで、木材搬送は河川流送が一般的。河川毎に組合があり、それぞれに生業が盛んだったため、森林鉄道に反対運動が起こった。 明治後期、電力需要の高まりで水力発電の機運が高まり、明治44年の「電気事業法」で、大きな河川のダム建設が決定した。また建築技術の発達で、各地に橋の建設の要望が高まった。その結果、物理的に河川での木材流送ができなくなり、日本の鉄道の普及に合わせて、森林鉄道に置き換わって行った。
明治政府による版籍奉還や社寺上地、官民有地区分事業が進み、まとまった国有林(官林・官有山林原野)が生まれた。国有林は明治維新の混乱の乱伐で荒廃していたため造林事業を展開。⇒大正期にかけて約30万haの造林をしつつ、林業を推進。明治32年より国が国有林の経営をする特別経営事業を開始。国が自ら、国有林での林業を積極的に推進したため、全国に森林鉄道が急速に普及した。
森林鉄道は、明治34年から昭和40年代頃にかけて木材を運搬するための鉄道として普及。明治維新以降、木材の需要がうなぎのぼりで、国が森林鉄道を林道として積極的に敷設した。森林鉄道が最盛期の全国の総延長距離は6,195kmに達した。
特に、森林鉄道が発達したのは日本三大美林と言われる津軽ヒバ、秋田スギ、木曾ヒノキ。
その他、森林鉄道が発達した場所は、北海道のカラマツ林(※未開の天然林が豊富にあった)、四国(特に高知)のスギ・ヒノキ林、屋久島の埋没林等々。
ちなみに、千葉県に森林鉄道は1線だけ。小坪井林道(君津市)7.2km(※昭和7年~21年?)があった。森林鉄道と呼べるような鉄道は敷設されなかったが、薪炭を運ぶためと思われるの軌道跡が発見された。
森林鉄道の線路幅は、原則762mm。(新幹線1435mm(標準軌)、在来線1067mm(狭軌))。線路幅が狭かった。レールが小さいことのメリットは①小回りが利く②線路が小さく軽い③機関車が小さくて済む④建設費が安い。デメリットは①輸送量が小さい②スピードが出せない③車両を大きくできない。
初期の森林鉄道は、動力車をもたず、台車に木材を積み、制動手が手動でブレーキ操作を行いながら自重で勾配を下る豆トロと呼ばれる「軌道」だった。
明治42年、津軽森林鉄道に「蒸気機関車」が初めて導入。その後、輸送量の多い路線に普及した。(ボールドウィン社製蒸気機関車(アメリカ製)は火の粉止め装置を持っている。)
森林鉄道の終焉(昭和中期~現在)
●昭和期(戦後)の流れ
⇒木材需要の拡大→ 国有林材増産の確保
・昭和33年「国有林経営規程の改正」及び「国有林野生産力増強計画」
・昭和36年「木材増産計画」※高度経済成長
●森林鉄道を取り巻く環境
⇒ 森林鉄道の輸送力の限界→ 性能が向上したトラック運材への転換
・ 国有林林道合理化要綱(昭和34年)新設。
「新設の林道は原則として「自動車道」とし、既設の森林鉄道は、自動車に切替えて改良すること」
⇒「改良は自動車道へ」が基本=森林鉄道の終焉。
⇒ 昭和50年5月30日、木曾王滝森林鉄道が廃止となり、事実上、森林鉄道は終焉した。
講師 吉埜 拡史
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